化粧

少女の視線の先で女は化粧をしていた。昼下がりの電車内である。車内は都心へ向かうにつれ混み始めていた。

 

女の近くに立っている少女は電車が大きく揺れると母親の手に危うそうにつかまりながらも相変わらず女を凝視していたが、化粧に夢中な女はそれに気づかない。まだ十ほどの少女の素肌は化粧を施されたことがないだろう。女へ投げかける少女の視線は化粧への興味によるものかと思ったが、目を細め眉間にしわを寄せたその眼差しは、化粧への憧憬が微塵も感じ取れない。

 

女と私は同じシートに座っていたがあいだに三人いた。三人を横切って視線を向け、少女のように化粧をする様子を凝視するには不都合な場所だった。ただ、四十手前に見える横顔と、花柄の優しい色合いのワンピースから間違えて飛び出てしまったかのような不釣り合いに太い腕をしきりに動かして化粧に勤しんでいる姿からは、たとえ化粧に寄りかかっても美しさとはほど遠いところにいるよに思えた。女の化粧がすすむにつれて、いっそう少女の女を見る目が険しくなった気がした。熱心に化粧をしてもいっこうに美しくならない苛立ちなのかもしれない。あるいは、化粧への幻想を打ち砕かれた恨みだろうか。

 

女を残して降りたホームでもなお、少女は睨み付けるな視線を送っていた。

 

 

告白

は?好き?

冗談抜きでそういうことやめてくれる?私があなたに何の感情も持っていないこと知ってるでしょ?

「玉砕覚悟で」って言ったら格好いいかもしれないけど、玉砕される相手の立場になって考えてみたことある?愛してるだの、好きだだの言ってるくせに、どこまでも自分本位。「好き」なのはあなたの方だけ。その好きな気持ちを押しつけてるだけって、早く気づいてくれないかな。あなたにとって、その愛は崇高だかなんだか知らないけれど、一方的な愛情ほど迷惑なものはないから。せめて自己完結させて共有しようとさせようとしないでくれる?あなたが考えている以上に、私にもデメリットしかないから。

まず、あなたにとっては好きな人に振られた最低な一年の始まりかもしれないけど、好きでもない男に新年早々「愛してる」とか鳥肌がたつようなことを言われた私にとっても最低な一年の始まりなの。

それだけでも最低なのに断らなきゃいけない。しかも、ただ断るだけじゃ、
「純粋な気持ちを伝えてるのに、あなたには誠意がない。」
とか言われてストーカーになられても困るから丁重にお断り申し上げなくちゃいけない。遠回しに伝えたり、できるだけ傷つかない言葉を選んであげるのもそれなりに労力を使うし、心だって少しは痛む。それが、あなたにはわからないでしょう?しかも、そしたらそしたで、どうせ
「遠回しな言葉を使うくらいなら、ストレートに本心だけ言って欲しい。」
とか言ってくる。ファックユー。

振られた方は気持ちをスパッと切り替えればいいかもしれない。でも、振った方は罪悪感みたいな嫌な感情を引きづっちゃうの。私は何も悪いことをしてないのに。ほんと最低の上に、最高に後味が悪い一年の始まり。その後味の悪さがあと362日も続くのよ?信じられる?

それに、2011年を振り返ったときにまず思い出されるのが、この告白になったりしたらどう責任とてくれるの?2011年の存在を消してくれる?2012年に地球滅亡させてくれる?

別に、
「自分の顔を鏡で見てからものを言いなさいよ。」
そう言ったっていいのよ?
でも、そんなことを言ったなんて話が友達や知人に広まったら、私の評判はがた落ちじゃない。せっかく生まれ持った美貌と磨き上げられた性格の良さで私のブランド価値をここまで高めてきたのに。

だから、きっと
「あなたって素敵な人。私にはもったいわ。」
とか、
「ごめんなさい。私にはずっと好きな人がいるの。交通事故で死んでしまったけれど、彼のことが忘れられないし、裏切るようなことをしたくないの。ぐすん…。」
なんて心にも思ってないことを言うはめになるの。

カントに言わせれば、あなたに気を遣った言葉には道徳的価値がないことになるの。だって、気を遣った動機に道徳的な価値がないもの。まぁ、これはサンデル先生の受け売りなんだけど。
それって最低じゃない?まるで私自身に道徳的価値がないような言われよう。私がそんな葛藤にも悩まされなくちゃいけないってことを、あなたは分かった上で告白しているの?

それを分かった上でどうしてもというなら、ヴィトンのバックとグッチの時計とプラダの財布を持ってもう一度告白しにきてくれる?そしたら、考え直してあげるわ。

あ、あとベンツの鍵も追加ね。

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別に誰にも告白してませんけど、今年もよろしくお願いします。

歯医者

普段、人に見られない所を見られたり、触られたりするのは思いのほか恥ずかしい物で、「マッサージ師に脇の下をほぐされて羞恥を覚えた。彼氏にもそうそう触られることはないのに。」と、ファミレスで熱弁していた友人を思い出した。

思い出しながら、口の中を覗かれている。顔は固定され、口には器具を入れられている。端から見たあら、これほど情けない姿はないだろう。さらに、踏ん張ることができない手術台に預けた体の不安定さが心許ない気分をを増長させている。
そもそも、この無能な医者に口を開けてと言われ、こちらが気を遣って大きく口を開けたところ、
「そんなに大きな口あけないでいいよ。」
その一言から、恥辱を味わっている。

始まった歯茎に広がる痛みを味わいながら、この辱めに大いに憤慨した。憤慨したがどうにもならない。相変わらず、口は(ほどほどに)大きく開かれ、無能な医者はペンチを握りしめて人の口の中へ押し込み、その行為何ら筋書きを持たず、ただ歯を抜こうとしているだけだ。やはり無能な助手は、歯茎から飛び散っているであろう鮮血(と、あふれ出るよだれ)を仏頂面で吸引している。驚いたことに、ほとばしる鮮血と赤く染まる白い歯を見てもなお、助手は何ら激情に駆られないのだ。これほど鮮烈な光景を見たならば、仕事を放棄してでもパッションだと叫びながら新たな芸術性を開拓するのが人間というものであろう。しかも、湧き出ているのは血だけではない。その血には、苦痛と怒りが交差しているのである(あとよだれも)。この悲しい事実に、文字通り切歯扼腕した。ただ、その口からは抗議の声が出せる訳でもなく、眉間に皺を寄せてみるのものの、痛みに耐えかねているとしか思われない。

壮絶な手術が終わってから、歯医者が言った。
「この親知らず取って良かったね。虫歯だったよ。」
先日、初めて診断したときに、「綺麗な歯してますね。虫歯はないよ。」と言ったのはどこの誰だ。二度と来てやるか。ヤブ医者め。

ビラ配り

あぁーかったるいな。ビラ配り。

土曜っていうのに店はガラガラ。そりゃ、お盆に髪を切りに来る暇人いないだろうよ。たいてい、実家帰るか遊びに行くかするでしょ。客がいないおかげで、この暑い中駅前でビラまきだよ。どうせ誰も受け取ってくれないのに。うちの店も休みにしちゃえばいいのに。ただでさえ休みないんだから。労基に訴えるぞ。このやろう。

つかさ、ちょっと頭下げて受け取らずスルーするやつってなんなの?お辞儀する労力あるなら、手をだせっつうの。頭下げりゃ許されると思ってんじゃねーよ。謝って済むなら、警察いらねんだよ。別に謝ってないのか。

あ、あのばあちゃんなら取ってくれるだろうな。年寄りってもったいない病なのか、なんにも考えてないのか、くれるものは何でももらってくれるし。ほら受け取った。残念ながら、ティッシュついてないよー。って背中へ伝えてあげても聞こえないか。口に出しても聞こえなさそうだしね。耳悪くて。どっちにしたって来てくれないだろうから、いいんだけど。いや、来られても困るしね。80歳くらいのばあちゃんに「エロかわいくなるよう切ってね。」なんて言われたら凍るわ。つか、殺意が芽生えてハサミで喉元を切りたくなるわ。実際、やらないけど。

あの外人の男の子かわいい。家族連れで旅行かな?おいおい、話しかけてきたよ。浅草寺どこかって?全然駅ちがうし。
歩いて何分?って知るかよ。何駅歩くつもりだよ。ビラよこせって、何につかうんだ?お土産?まぁいいか。一気に3枚ノルマ減ったし。

だいたい、こんなしょぼくれた下町でなんで私は働いているんだろう。もっと陽の当たる原宿とか表参道とかで美容師したいのに。もういいや。このビラが今日中になくなったら、今のところ辞めて表参道で働こうっと。その方が絶対に向いてるし、私のセンスを思う存分発揮できるはず。あと100枚くらいあるけどね。

口開けて歩いてるやつに、丸めて突っ込んでいけばすぐ終わりそう。頑張ろうっと!

駅内のカフェから地元の駅前でビラ配りしてる美容師をアフレコ。なんか上手くいかないなぁ。

どうもneonがイジメにあっているようです

「おはよー。そろそろ海開きらしいじゃん。オレさ防水だからさ、一緒に海行けば水着のギャル見放題だなんだよね。つかさ、持ち主が可愛い女の子なら一緒にお風呂に入れちゃったりして、もうウハウハ。」

「でも、お前の主人、ムサイおやじじゃん。つか、聞けよ。オレはついに1000万画素越えなんだぜ。」

「よくいるよね。数字だけしか自慢できるものがない男って。中身がないの。まぁ1000万画素が好きそうなスイーツな女の子がよってくるからいいんじゃない?あんたにお似合いだよ。まぁ私は地球のことまで考えてるからソーラ充電付きなんだけどね。エコって最高よね。」

「いま梅雨だけどね…。そんな時期は、家でゆっくり過ごしたいよね。だから、僕は本が読めるようになりました!」

「いや…誰も読まないと思う。」

「NERV特別仕様ケータイのくせに何か言ったか?つか、いい加減、オタクからの搾取やめろよ?」

「逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。逃げちゃだめだ。」

「やっほー!こんにちは!ディズニー携帯だよ!」

「アンタ権利関係に、ほんまウルサイから夢の国からでてくんなやー。」

「お。サマンサタバサ。何その中途半端な関西なまり。あんた大阪っ子とかいってるけど、実はエセでしょ?田舎に帰れよ。」

「はいはい。ケンカはやめておどきなさい~。Gucci様が通りますよ~。金持ちケンカせずってね。」

「あたしCHANELですけど何か?」

「はぁ~?勝手に日本に来ないでくれる?日本じゃ使えないくせに。いたッ。何このヌリカベみたいなデカイ図体は。」

「ヌリカベとは失礼な。いま流行のiPhoneですけど。」

「新参者のくせにデカイ面しすぎなのよ。でも、あなたのOS古いみたいね。あれ?今なんか通り過ぎていかなかった?」

「iPhone 3GSの方ね。あの子は早さだけが取り柄だから。」

「あら、neon。おはよう。今日もツギハギなの?相変わらずボロイわね。」

「neonてさ、そもそも名前自体が古めかしいよね。LEDとかにすりゃいいのに、ネオンて昭和かよ。」

「あんたってさ、基盤を押してないと音が聞こえないらしいじゃん。名前をneonよりmuonにしたら?無音。あははは。」

「そういや、亀裂からLEDの光が漏れていてさ、最初SOS信号かと思ってレスキュー隊呼ぼうかと思ったよ。いやいやマジで。あれ?横にいるのは?」

「初めまして、misoraです。neonの後を継がせてもらおうと思っています。」

「あんたさー、今更ワンセグも使えないんでしょ。ないない。」

「っていうか、ミソラって『ファ』はどうしたの?あ、もしかして壊れちゃったの?『パパからもらったクラリネット♪とっても大事にしてたのに壊れて出ない音がある~♪』みたいな?壊れかけのneonの後継ぐにはちょうどいいかもね!」

777

「食パン158円が1点、カップラーメン117円が2点。アロエヨーグルト385円が1点で…合計777円になります!」
と同時にベルがなり、「おめでとうございます!よっ今日のラッキー男!!!」と、威勢のいい声がした。あっけに取られる僕をおいて店員は続ける。

「福男と違って全力疾走しなくていいので、お爺ちゃんお婆ちゃん並の体力のあなたでもOK!しかも、何度でもトライ可能ですよ。まぁ、計算できる脳のなさそうなあなたは、間違いなく偶然777円になったんでしょうけど、計算できるなら計算してもいいですよ!見た感じ、電卓すらまともに使えなさそうですけどね。ちなみに、今日777円のお買い物をされたのはお客様で3人目です。」
3人もいるんだと、盛り立てられて自然と嬉しくなった気持ちは、そこで少し水を浴びた。

それを察したかのように
「でも、男性は今日の一人目ですよ!しかも、私がレジをやっていて初めてのラッキー男です。私まで幸せな気分が味わえて、本当に嬉しいです。」
いやいや、そんな潤んだ瞳で見つめられても困ってしまうがが、悪い気もしない。

「何か特典はあるの?」と聞くと、店員は黙ってしまった。
何か悪いことを言ったかなと思いつつ、二人の時間を先に進めるために1000円札を財布から取り出して渡した。

ふと我に返ると、お釣りは223円です、と気だるく言う大学生風の男がレジに立っていた。
「まだまだだな。俺がお前だったら1,554円渡して、お釣りの額も777円に揃えるよ。本当に運を手に入れるためには努力が必要なんだよ。もういっかい修行してこい。」
眼鏡の奥のクールな彼の目が明らかにそう言っていた。

そんな妄想に浸れた777円の買い物。

お弁当男子

いいから、さっさと見せろって。そんな照れる歳でもないでしょう。むしろいい年した男が照れてるとか気持ち悪いからさ。しつこすぎ。休憩時間終わっちゃうから早くしてって。扱いづらいなこの会社の男どもは。だから会社も赤字で吸収合併されるでしょ。ざまぁみろ。

お弁当箱出すまでここに来て何分かけてんの。時間のムダ。特に私の貴重な休み時間の。まぁ、雰囲気悪くしてもしかたなくつきあってあげるけどさ。
風呂敷包みのお弁当ってしぶいなーいつの時代の人だよ。しかも一段で蓋が透明って今時、中学生でもあんな弁当箱使ってないと思うんですけど。センスのなさがありありと出てるよね。だから大したデザインも出来ないんだと思ったり。まぁ、そんなこと口に出して言えないけど。
たまに遠回しに伝えているんだけどね。どうもこの男が鈍感すぎて伝わらないんだよね。そりゃ時代の波からとりのこされた出版社だししかたのない部分はあるけど、言葉の行間が読めないってどうなの?まぁだから売れる雑誌が作れないんだろうけど。

え?30分?こんなお弁当作るのに30分てどんだけ呑気なの。そのスピード感のなさが仕事っぷりにも表れてるよね。彩りもいまいちだし、配置も何も考えずにただあった具材を入れてるだけって感じ。卵とか、スクランブルエッグ風にしてるけど、それってただ単に卵焼きが作れなかっただけでしょ?料理とか得意ぶってるくせに卵焼き作れないって言葉を失っちゃう。ほんとこの会社の人ってダメだわ。将来性ゼロ。もちろん、そのお弁当の点数もゼロ。

時間がなかったとか、お弁当のおかずを食べられちゃったとか言い訳がうざったい。そんな言い訳したからって、評価があがったりしないから。ゼロにどんな数字をかけたところで、ゼロはゼロ。残念だったね!「もう作ってこない」とか、別に作ってきて欲しくもないし、関係ないからね。好きにしてね。

あぁ変なお弁当の匂いで気持ち悪くなってきたし、そろそろ戻ろっと。あ、なんか目にも悪かったし、本当に気持ち悪い。早退するいい理由が出来た。もう帰ろうっと。

なんとなく気が向いてお弁当を自分で作って行った日、ラウンジに偶然いあわせた女性社員の気持ちをアフレコ。
お弁当に詰めようと取っておいた前日の夕食の残りを、朝起きたら父親に食べられてしまっていたのは本当の話。別に、お弁当男子を(無理矢理?)流行らせようとしているどっかの出版社の差し金ではない。たぶん。。。

何もバレンタインを目の前にして、こんなことにならなくても。なんでこう、いつもいつも私ってタイミング悪いんだろう。前の人とも誕生日の前日にケンカをして、そのまま別れちゃったし。
今日も乾燥していて、水気をまるで失ったハンカチーフが涙をよく吸い取る。タイミングがいいのはこんなことだけ。もう、そのハンカチーフでさえも溢れるこの涙を全て受け止められるのかどうか。あ、マツカラが取れて涙が黒くなってきた。そろそろ気持ちを落ち着けないと。

っていうか、なんなの前に座るキモイ男は。じろじろこっち見ないでよ。私は哀しいの。つらいの。わかる?きっと分かんないでしょうね。もてそうにないし、こんな世界の最深部にいるような哀しみなんてとても味わったことないでしょうね。そう、まさに悲劇のヒロイン。私以外、その言葉が似つかわしい人なんていないんだけど。うわ。キモイって。見るなって。こっち見ずに持ってる携帯か文庫でも見てろっつうの。まぁ私の顔はクレオパトラのように美しいし、涙はルビーのように輝いてるから目が自然と行ってしまうのは分かるけど。まぁ、今はルビーというか黒真珠?

つうか、両方持ってないで携帯か本かどっちかに集中しろよ。だから、見た目からして中途半端なんだよ。そもそも、何その携帯。ボロボロだし、基盤でてるじゃん。うわー。ありえない、ありえない。女の扱いもあんなふうに乱暴そう。
あ、いけない。そんなどうでもいいこと考えててもしょうがない。

あの人になんてメール返そうかな。あんなに愛してあげたのに、何がいけなかったんだろう…。

文字を書いては消すの繰り返しで進まない。ただ、この気持ちを伝えたいだけなのに。なんて人間は不便な生き物なんでしょう。神様は私が美しくて聡明だから試練を与えるのね。そう、私がいけないの。わかってるわ。

つかめんどくせー。「ごめんね。愛してるのはあなただけだよ。」ってとりあえずメールしとくか。もともとあんな男、もっといい男が現れるまでのつなぎだと思ってたし、何で渡しが謝る必要があるのかも分かんないし。チョコとか買っちゃったけど、自分で食べればいっか。あんなすっとぼけた男につきあってあげていた、優しい私へのご褒美♪

あ、いま乗ってきた男、いい男。あの人に買ったチョコあげてみようかな?「半年前からあなたのことを見てました。これを受け取ってくれるだけでいいの。私は他には何もいらないから。」
あの身なりなら、5倍、いや10倍返しは堅そうだし。いやーホワイトデー楽しみだわ。でも、食べてみたいチョコだったし、開けて半分食べよ。箱を上手く半分に切って渡せばなそうだしね。名案。さすが私。
もう泣いてたのがバカみたい。早く帰って、ごはん3杯たべよ~っと。

電車で前に座っていた、涙する女性の気持ちをアフレコ。

結婚指輪

吸い込まれるように、婚約指輪が彼女の薬指に収まった。
手をひらひらと返す彼女の指下でダイヤモンドの散りばめられた指輪は、そこにいるのを喜ぶようにキラキラと周囲に細かい光を舞い散らせる。

けれど、見とれたのは指輪の輝きではなく、指輪をケースからそっと出し指輪をはめるまでの一連の行為とその行為を紡ぎだす彼女の指だった。

親指と人差し指の先で清らかに指輪が運ばれ、薄っすらとマニュキュアの塗られた爪をすり抜け、節と節の間が長く白い指に滑り込む。そのしぐさを見ている側も、指輪と皮膚のすれる音を聞き、節を通過する際のわずかな抵抗を確かに感じた。結婚指輪という、見慣れない物を目の前にして、自分まで高ぶったのかもしれない。

結婚指輪について、また結婚相手についていくつかの質問をすると、彼女は一つ一つの質問対して、丁寧にエピソードを添えて若干照れながらも答える。彼女と婚約者との二人だけに許される暗号めいた行為を聞きながらも、不思議と疎外感や惚気に呆れるといったことはなかった。

指輪をする一連のしぐさは、間もなく迎える結婚への過程とその後の生活が彼女にとってどれだけ愛しむべきものかを表現するには十分すぎるものだった。それを見てしまった以上、もう彼女の世界の中に足を踏み入れてしまったのだろう。主役の彼女を盛り上げるつたない脇役として。
 
指輪の持つ幸せの価値は、決して特筆すべきものではなく万人が持てるようなものだろう。結婚そのものに憧憬を持つほどのものではないと感じていた。けれど、脇役になり彼女の物語に触れることで、彼女が今もっている幸せの重さの一片を感じることで、幸せを掴む方法を教えられたような気がした。一塊の大きな幸せではないかもしれない、けれど、恋人との何気ない会話、恋人と創りだす空間に、小さな幸せを少しずつ集めれば増幅されこれほど幸せになれるのだと。

そんな抱えきれないほどの幸せを指輪に押し込めて、押し込められなかった分は指輪をいじりながら表情に滲み出す彼女に少し嫉妬し、幸せを手に入れられられそうにない自分に焦りを少し覚える。

それにしても、今まで何度も目にする機会があったはずなのに、これほど華奢で綺麗な指をしていたことになぜ気付かなかったのだろう。元々美しかったものではなく、指輪をするために美しくなったのではないかという疑念すら湧いてくる。

指輪は、一人の女から花嫁へ変えるための道具であり規定するものである。ある種、貞操帯のようにそれまでの世間から乖離する意識付けのための物なのかもしれない。指輪をする度に、単純な幸福の願いを込めるだけでなく、様々な意志を込めることによって、花嫁として妻としての役割と自身の溝を無意識に埋めていくのではないだろうか。

学生から社会人になった時の急激な大人の女性への変化に驚いたのがついこの間だった気がする。不器用そうなくせに、役割をこなすために自分を成長させ自然と振舞う技術を、幸せを呼びこむ技術をどこで身に付けたのだろう。

今後も彼女は、妻という役割、やがて母という役割を無難にこなしていくのだろう。その度に少しずつ大人の顔になりながら。小さな幸せをめいいっぱい抱えながら。

ツンデレ

俺もよ、いい加減飽きてきたんだが、また例の野良猫のことだ。

今日、久しぶりに見かけたんだけどよ、近くの駐車場のどまんなかで、偉そうに日向ぼっこしてやがった。俺を見かけたら、気だるそうに頭上げてよ、ジロジロ見てやがる。俺は気付かねぇ振りして、通り過ぎようと思ったんだけどよ、丁度カメラを持ち合わせていることに気付いて、生意気なあの野良猫の写真でも撮って、酒の席で話の種にするかと野良猫の方に寄っていった訳よ。

その時のアイツの顔っていったら、呆れたね。餌をくれると勘違いしやがってるみてぇで、期待に満ちた顔。世の中、そんな甘いもんじゃねぇっていうの。俺はよ、野良猫から1歩離れたところで、カメラを構えて写真を撮り始めたわけよ。そしたら、あの猫のやろう調子にのりやがって、ポーズを構えるみてぇにちょいと顔を上げて、気取った顔をしやがった。さらに、大きく口あけて鳴いたりしてよ、どこぞの飼い猫でもねぇのに、おめぇ、慣れてるなぁ、と思わずいっちまいそうになったじゃねぇか。

だがよ、終盤に差し掛かると、もう飽きたのかわかんねぇが、ぐたぁっと横になって、でっけぇ欠伸を一個しやがった。生意気にもほどがあるってぇの。てめぇは何様なんだ。まぁ俺も、小汚ねぇ野良猫の写真を撮るのに飽きちまってよ、カメラ閉まって立ち去ろうとしたら、どうも俺の背中に向かってみゃぁみゃぁ鳴きやがってたみてぇだ。あぁ、そんな声、俺の耳には届かなかくてよ。風の噂っていうのか、後から誰かから聞いた気がするだけなんだけどな。写真撮ったんだから、餌ぐらい置いてけよってことなんだろうな。その根性が悲しくて、涙がでてくるね。なんで、てめぇ、写真を数枚撮っただけで、餌を得ようという情けなさ。撮ってもらえたことに感謝するのが、江戸の野良猫ってもんだろう。

そんなことがあってよ、飲まなきゃやってられねぇってんで、つまみ用に、スルメを買って帰ったさ。勘違いすんなよ。アイツのためなんかじゃねぇ。俺のつまみ用だからな。