仕事をして泣けたこと


とても、とても嬉しかったこと。
今の仕事をしていて、初めて泣きそうになったこと。

単純な掲示板なのだけど、たった一つつけただけでこんなに反応してくれるユーザーがいたことが、本当に泣けるくらい嬉しかった。リリースした直後にはもう、盛り上がらずに失敗するかもという不安から、データベースが重くなりすぎるという方にシフトしていて、心配よりも楽しみの方が上回っていた。正直、どっかのタウンミーティングみたく、自分が一番最初に書き込んで後につなげようとしたけれど、自分が書き込みをしたときにはすでに数件の書き込みがされていた。

今まで、ずっと一方通行で、「ユーザーのため」という大義名分をかかげているけれど、結局それは踏みにじられることが多かった。だから、クレーム以外のユーザーの声が聞けることがなかった分、機能が一つついただけでユーザーの生の声がこんなにも聞けるのかと驚いた。

ずっと、ネットの社会は枠組みだけが必要で、後のものは全てユーザーが作ってくれると考えていた。Webの良いところはユーザーが主体のはずなのに、作る側はいつも忘れがち。
「他のところよりももっと良いものを。」
という掛け声のもと頑張るのだけれど、その良いものがユーザーにとってよいものかどうかって、実はあまり考えられてなと思うことがしばしばあった。良いもの=機能ではなくて、本当に必要なものなのに。
きっと、これからも枠組みだけが必要なのは変わらない。どんな枠組みが必要かを見極めて、きわめてシンプルにそれを作れるかどうか。

会社からみたら一番重要な売り上げは、リリースした直後から伸び悩んだけれど、初めてユーザーのために作ってよかったと思えるものをリリースできて、今年があって本当によかった。

もしかしたら、売り上げの悪い媒体だからつぶれるかもしれないけれど、優しいユーザーがいっぱいいた媒体だったことは忘れない。その事実を知れたことが、とにかく嬉しかった。もしそれを知らずに終わっていたら、何の価値もない仕事をしていたという気分になっただろうから。

初めてメッセージを書き込んでくれた人、少し荒れそうになった時に、なだめるメッセージを書いてくれた人に感謝。でも、やっぱりメッセージを残してくれた全ての人に感謝。ありがとう。あなたたちのために、この媒体はつぶさない。

渋谷が嫌いです


「雨だから、5000円。安いよ。サービスいっぱいするし。」
近寄ってきた女は片言の日本でそう話しかけてきた。
相手にせず通り過ぎようとすると女は行く手を遮って、さらに話しかけてくる。口に出して断るのも億劫だった。仕事帰りで疲れているのに、さらに疲れてしまう。あなた達が何をしてもいいけど邪魔しないでほしいと叫びたかった。昼間はアンケートを依頼するおばちゃんがいて、夜はキャバクラや風俗の客引き。人にも街にも品がないから渋谷が好きになれない。

でも、昨日紅茶を飲んだお店のある通りだけは居心地がいい。
もう渋谷というよりは神泉といった方がいいかもしれないけれど、道玄坂の大通りから細い路地のその通りは、少し入ったところに八百屋があって、少し先には肉屋がある。さらに進んでいくと、氷屋やコーヒー豆の専門店もある。

一つ道がずれればラブホテル街なのに、この通りだけは人も店も落ち着いている。猫が道端で昼寝をしているくらいだから、本当に落ち着いているのだろう。所々にある新しい現代的なお店も、華美ではなく八百屋や肉屋に調和していてなんの違和感もない。あ、でも途中にあるスーパーだけは邪魔かな。

たいてい大きな街のすぐ近くには、置き忘れられたように、どこか懐かしい通りがあって時々驚く。でも、そこにいる彼らにしたら、自分達は何も変わっていなくて、勝手に周囲が派手になっているだけなのだろう。
けれど、周りが目に見えて変わっていく中で、焦らず自分達の生活を守れるのは、すごいなって思ってしまう。大好きなんだろうな。自分の店も周りの店も。なんとなくそれを感じるから、そういう場所は好き。

実は、その通りにある肉屋でコロッケを買うのが小さな夢なのだけれど、なかなか手をだせずにいる。コロッケを食べてしまうと、全て消えてしまいそうで怖いんだよね。その通りは、あまりに自分好みに出来すぎていて、自分が勝手に作り出した幻想なんじゃないかって思うから。

ミルクティーと戯れる


昼休みに、ひとりで少し遠出して、小さいけれどとても落ち着くお店に行った。

食後に出てきた紅茶にミルクを注ぐと、ふわっと紅茶の中にミルクが混ざって、その様になんだか惹かれてしまって、じっと見入ってしまった。透明なカップだったから余計にその様子がみてとれて、ポットに入った紅茶を注いではミルクを入れ、というのを繰り返して楽しんでいた。

ミルクの曖昧な広がり方が、柔らかいぬくもりを演出しているようで、きっとこれがミルクの優しさなのだろうな、とか考えたりして。入れると同時に混ざりきってしまうものだったら、ぬくもりなんか全く感じずに、ただ冷たさだけが印象に残るんじゃないかな。そしたら、きっと一口含むとほっとするあの味も変わってきちゃいそう。

比重の重いミルクはスプーンで混ぜないと下のほうにたまってしまうのだけれど、混ぜてしまうのが惜しくて。だって、混ざり具合はその紅茶とミルクの性格みたいだから。それを分かりづらくしてしまうのは、なんだか可哀想な気がする。でも、混ぜないと次の紅茶を注げないっていう葛藤があるんだよね。

到底、他人には理解してもらえそうにないことに集中できるから、たまにはひとりっていいな、と思う。

夢の記憶

昔の彼女を偶然見つけた僕は、声をかけていいのか、そのまま立ち去るべきなのか分からず途方にくれてしまった。場所は、よく買い物に付き合った”martinique”というショップだった。日曜日の昼過ぎで、店内にはお客さんが多かったけれど、みんなとても穏やかで、陽光が優しく店内を照らして優雅な時間が流れているように思えた。彼女もその中の一人で、やっぱり穏やかに服を手にとって選んでいた。

途方にくれながらも、少し大きな声を出せば聞こえるところにいる彼女をずっと目で追っていると、彼女が僕に気付いて、近寄ってきた。
「久しぶり。」
と、はにかんだ笑顔で彼女が言うまでのわずかな時間が途方もなく長い時間に感じられ、その間に僕はもう泣き出してしまっていたらしい。
「なに泣いているの?」
子供をあやすように言う彼女に、
「わからないけど…。」
それこそ子供のようにしか答えられずに涙がぼろぼろとこぼれてしまっていた。

そこで、夢からさめた。
不思議な夢だった。とても鮮明だけれど、分からないことだらけの夢だったし、泣いていたはずなのに、ひどく心が落ち着いていて少しも寂しい気分ではなかった。かといって、嬉しさで泣いていたわけでもない。彼女が僕を見つけた瞬間から、もう自分をどう表現していいか分からず、混乱して咄嗟にした行動が泣くという行為だったというのが、冷静な見方なのかもしれない。

こんな話をしてしまったから、誰も信じないかもしれないけれど、未練という心のしこりは全くなくて、ただ、今の彼女が幸せになっていればいいと願っている。もちろん、長年付き合っていたから人として好きだし、家族と同じくらい感謝している。でもそう思えるのは、未練という感情を昇華させてしまっているからなのだろう。

結局、やっぱり流した涙がなんとも理解しがたかったので、きっと、彼女が幸せそうで、ほっとしたから流した涙なのかなと思ってみる。彼女は、いま幸せなんだ。そう思い込むのが僕も一番幸せだから。

一ヶ月ほど前の夢の記憶。

冬の光


書きかけのものがいっぱいある。途中で投げ出しちゃったものとか、感情に任せて書いたはいいけれど、もうどうでもよくなってしまったものだとか。勢いだけで最後まで書ききらないと、その後どうにかなる能力の持ち主ではないらしい。

自分の文章は、トゲトゲしくて自己主張ばっかりしていて後から読み返すと悲しくなる。冬の光みたいな温かくて柔らかい文章を書いている人をみると羨ましいな、こんな文章を書きたいな、って思うのだけれど、性格的な問題なのかそういう文章にはなかなか近づけなくて、再び悲しくなる。

もう少し年齢を重ねると文字にも厚みを増すのかな。そんなことを思った。でもそれを決して悲観しているわけじゃなくて、我を示すことに終始するのではなく、人を柔らかくで包みこめるようになりたいと思い始めたことが、最初の一歩なのかなと思ってたりする。

やりたいことが山のようにあって、短い人生ではとてもやりきれない。例の女子大生から聞いたときは、すごい、でも若いからだとか思ったけれど、今はそういう心持がすごいわかる。限界を作るのは自分だというのも、うわべだけの言葉だけじゃなくなんとなく分かる。神様なんか信じないけれど、「努力した人を神様は見逃さない。」っていうのも、少しは信じるようになった。

好きなことだけやろう。それが人の役にたてばいい。そして、それがほんの少しお金がもらえることなら、なおさらいい。自分はそうやって生きていきたい。

そんなことをぼんやりと、柔らかな日差しを浴びながら考えていた。

少しだけ嬉しかったこと


ホームにたどり着くと同時に、電車が行ってしまって、
「おーまいごっど!!」
と、アメリカ人の真似事をして、途方にくれてみた。声が、電車の騒音に掻き消されてどこかへ行ってしまった。

次に来た電車に乗ってシートに座った時シートのあまりの柔らかさに周りに人がいなかったこともあって、やっぱり思わずアメリカ人みたいに
「わぉ~!」
と珍しく嬉しさを体中で表現してみた。
せっかくなので、立ち上がってもう一度座りなおして、さっきよりも少しだけ大げさに
「わぉ~~!!」
と敬意を込めて言ってみた。

ふかっと、お尻からシートの優しさが伝わってきて、その優しさが一本電車を逃した自分には嬉しかった。映画館でもこれほど柔らかいシートは稀だろう。何度もお尻で飛び跳ねて、柔らかいシートに包まれたかったけれど、もう次の駅に着いてしまって、人が乗ってきたので止めといた。

乗ってきた人がこのシートに座って、座り心地に驚く表情を見たくて、じっと見ていた。その人は座った瞬間、わずかに怪訝な表情をしたのを見逃さなかった。そして、もう一度、軽くお尻を浮かして座りなおしていた。それを見て、自分のことのように誇らしく思った。
「すごいだろう、このシートは。俺は、一駅前から座っているんだぞ。」

最寄り駅に着いたとき名残惜しくて、降りる際にちょっとマーキングするみたいにお尻をぐりぐり押し付けた。また会いたいなと最後に、シーユーと言ってお別れした。

また会おうね。

新しい文化


今の会社に入ることにした理由を、明け方まで飲んでいた時、友人のちょっとした一言で思い出した。

新しい大枠を作って、新しい文化を創りたい。ずっとそんなことを考えていて、小さいながらも、それが出来る仕組みが既にあったから、この会社に入ったんだ。それを多忙からか、会社の中身を知った絶望からかすっかり忘れ去っていた。その忘れっぷりに、自分が一番驚いた。

いま考えると、web2.0の根本を担うかもしれない体系。もったいぶって、ここでは詳しくは話さないけれど。

それが、この会社と共にいる理由だったのに、それを忘れていたのだから、どうしようもない。信念がないのは自分の方だ。せっかくだし、それだけはやっていこう。

一つだけ心がけること。
体系を生み出す時に、金儲けは考えないこと。
金儲けを考えたら文化は生まれない。

そんなに急いでどこ行くの?


編集しているメルマガのネタにもしてしまったのだけれど、横の話。
「横と書いて、なぜイチョウと読まないのか。木へんに黄なのに。」
そんな話の小説だったか随筆だったかを読んだことがある。なるほどなと思ったけれど、木へんに赤という文字はないから、おあいこなのかもしれない。いや、何と何を争そっているんだか分からないけど。

そんなことを思い出したのは、仕事を早くあがって上野公園の脇を通った時のこと。20メートルくらいはある大きなイチョウの木が黄葉していて、その存在感に圧倒されて思わず立ち止まってしまった。いったい全部で何枚あるのだろう。一番上から、一番下まで残らず几帳面に黄色に染めて。中にはひねくれて、まだ青々としているのがあるのだろうか、なんて考えてみたりして。

明ちゃんに髪を切ってもらいにいく途中だったから、のんびりとはできなかったけれど、日曜日にでもぽかぽかと穏やかな陽の光を浴びながら黄色い葉が落ちていく枚数を数えていてみたい。

そんなことを言うから、年寄りくさいと言われてしまうのか。そんなに急いで生きなくてもいいのに。と、年寄りからすれば思うのだけれど。

でも、今もせんべい片手に、お茶を飲んでいる身からしたら、落ち着きすぎなのかもしれない。気分は80代ってね。ま、でも、今のお年寄りは若いしさ。精神年齢80歳の気分は10代みたな。

同窓会(中略部分)


(やはり中略)

十数年前の思い出は、その後の人生の厚みに押され、もうかすれてしまっていて、三人の共通する旅の話題に大半の時間を割くことになる。

前日から続く精神的な不安定さから、場を盛り下げたら、という気掛かりが人見知りを増幅させていたから、三人に共通点があってよかったと思う。旅好きは、単なる偶然なんのかもしれないが、イギリスに住みたいという彼女の言葉を借りれば、こうなる。
「葛飾の血なのかね。寅さんのような。」

もう、25歳だしということで、仕事と結婚の話に向くと、どうしても考えすぎの面がでてきてしまう。
「考えすぎは、気質だからしょうがないよね。」
と、同じロマンチストな天秤座だという彼女は、これまた同じように考えすぎだと言われるらしいが、表情からそれを読み取らせない。そういうのが、人としての成長だったり、人の良さなのだろうと思う。自分はまだまだ。

(さらに中略)

※一部パクリ

なんだこりゃ…

ある愛の形


「もう4年も前になるのか。」
と、お茶をすすりながら思った。今、口につけている湯呑みを作ったのがである。

4年前、京都を訪れた際に陶芸体験をして、粘土を成型した。自分が行った作業はそこまでで、窯元で乾燥させ、焼いた後に家に送られてきた。

もっとも、陶器を送られた際には日本にいなかったので、一緒に行った者から出来上がった陶器が送られてきたことを知った。結局、その陶器と向かい合ったのは、それからさらに数ヵ月後である。

形はいびつ。大きさも中途半端。
ただ、色はいい。
外側は焦げ茶。に、苔のように山吹色が生えている。それが、出来たばかりなのに年季を感じさる。詐欺師のようで持ち主と似ている。内側は灰色と乳白色を混ぜたような色。どことなく透明感を感じさせ、お茶を入れたときに、お茶の色を引き立てる。

「陶器は、いつか割れるために使う。」
そんな思い込みが自分にはある。使わずに、傍に置いておくよりも、生活の中に組み入れたほうが思いは深まる。たとえ、それで陶器が何かの拍子に割れたとしても、嘆き悲しめばよい。懇意の人が亡くなった時のように。それこそ、人と対等に扱うというものだろう。

この湯呑みも割れた。半壊に近い。使い始めてわずか1ヶ月も経っていない頃だった。持ち主よりも割った母の方が哀れみ、悪いと思ったのか湯呑みを接いだ。

接ぎ方が悪いというより、割れ方が悪かったのか湯呑みにお茶を入れると漏れてくる。それもまた、この湯呑みの個性だろう
そう思いながら、まだ使っている。