散るぞ悲しき – 梯 久美子

新しく買った本や、買ったまま読まなかった本、過去に読んだ本を何冊か手に取ったものの最後まで読み切ることが読み切ることが出来なかったここ最近。最後まで読み切ったのは、ノンフィクションだった。硫黄島の戦いや栗林中将についての知識はそこそこあったし、物語の世界を頭の中で構築する必要がないのが楽だったのかもしれない。

 

あまりノンフィクションを読まないけれど、栗林中将が妻や子供に手紙や当時の部下の言葉から、栗林中将の人となりを探っていく柔らかなノンフィクション。硫黄島の戦いの経過や陸軍や大本営への批判はあるものの、その多くは栗林中将の目を通したものであって、ノンフィクションならではの読み応えはそれほどない。

 

どういった経緯で書かれ、文庫本になったのか分からないが、本の中で同じ説明が何度も繰り返されていたのには、閉口した。例えば、栗林中将の訣別電報を何度読まされ、何度同じような解説を読まされたか。また、栗林中将から一つの手紙を分け、途中に著者の解説を挟むのもあまり好きではなかった。

 

ただ、手紙を通して栗林中将の一面を知るにはいい。

 

妻に宛てた手紙の中で、自宅のお勝手の板の間の隙間や妻の赤ギレを心配する様子、自分亡き後の家族を思いやる文面からは、以前に読んだ尾崎秀実の手紙を思い起こさせた。アメリカ側から最も評価された指揮官の一人である栗林中将と、ゾルゲ事件の首謀者である尾崎秀実。社会的に対局にいる両者が、手紙の中では同じように妻を思いやる一人の夫であり子供を心配する父であることが、世間からの評価や立場、これから迎える運命を考えると、どこか不思議に思えた。ただ、補給もままならない南の孤島で激戦を迎える栗林中将も、死刑判決を受け獄中で死を待つ尾崎もどこか心境は重なる部分があったのかもしれない。

 

面白いのは、家族からの差し入れを断り続ける栗林中将と、細かく品物を指定して差し入れを望む尾崎。軍人らしい現実主義者と共産主義を実現しようと革命を試みた理想主義者との違いかとも思った。もっとも、島の食糧事情を鑑みて率先して一兵卒と同じものを食べていたとはいえ、軍の司令官だった栗林中将と、反国家分子として死刑判決を受け獄中にいた尾崎の環境を同列に語るのも酷だけれど。

 

 

さて、著者は作中で硫黄島の広さを「大田区の半分ほどの広さ」と例えているのだが、なぜ硫黄島とほぼ同じ大きさの品川区や北区、港区に例えなかったのだろうか。もしくは千代田区の2倍と例えた方がよかったのではないかと疑問をもった。確かに、品川区、北区、港区より大田区の方が大きいこともあって、広さを想像しやすそうな気はする。けれど、だったら皇居や靖国のある千代田区の方がいいなとか。例えについては大きな問題ではないのだけれど、まぁその大きくない島に日本軍2万人以上が配備され、そのほぼ全員が戦死した。

 

ほとんどの将兵が、職業軍人ではなく市井の人々だった(作中原文まま)。彼らの遺骨の半数以上が未だなお硫黄島に眠っている。読んでいて彼らを含め多くの犠牲の下でいまの日本があると月並みなことを思いたくなったものの、戦争に導いたのもまた彼らだったのではないだろうか。

 

戦前間際、福岡日日新聞の菊竹六鼓や信濃毎日新聞の桐生悠々といった反戦を論じた新聞社や論者に対し、不買運動をし、抗議するという空気を作り、容認したのもまた市井の人々であり、戦争への道を扇動したのは不買運動を恐れて軍部に迎合した多くのマスメディアだけの責任とも言えまい。

 

一方では日本の戦争犯罪にしか目を向けず、一方では無条件の軍部の賛美。大半の無関心な層を除いて、太平洋戦争を積極的に振り返る層のほとんどがそのどちらかに属されるのではないだろうか。硫黄島の慰霊碑を含めた多くの慰霊碑に刻まれている「過ちを繰り返しません」という決意。その決意を実行するため不可分なはずの過ちの分析に多くは触れられない。戦争を知らない世代にとって、そうした決意はどれだけの意義があるのだろうかとか、浅い知識で無駄に考えるのには良い作品だったりします。

 

不況だとナショナリズムが高揚するし、腐った組織では優秀な司令官ほど前線で将兵とともに朽ち、責任と死を押しつける無能な人ほど中枢で生き残るのはいつの世の中でも変わらないと思うけど。人の性でしょう。

 

散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道

著者/訳者:梯 久美子

出版社:新潮社( 2005-07-28 )

単行本 ( 244 ページ )


愛情は降り注ぐ星のように

「愛情はふる星の如く」が、いつの間にか自分の中で「愛情は降り注ぐ星のように」になってしまっていました。でも、「ように」より「如く」のが締りがいい。けれど、「降り注ぐ星の如く」では、語感が悪い。「~ぐ~く。」だったり、「~ぐ(gu)~ご(go)~」だからなんだと思う。

結局まとまりを考えると「愛情はふる星の如く」になるのだけれど、何が好きじゃないかっていうと、「ふる」という言葉が弱い気がする。「ふる」だったら「降り注ぐ」の方がいい。「ふる」だと「愛情」にも「星の如く」にも負けている。意味も言葉の重みも。

そんなどうでもいい私見はおいといて、ようやく読み終わりました。

途中で中だるみしてしまいました。降り注ぐ愛情が重すぎて、ずるずるとそれを引っ張りながら読むのには苦労しました。

最期の手紙は、処刑された日の午前7時頃に書かれた物だったらしい。本人は最期の手紙だという認識はおそらくなく、次のような一文で締めている。

 「今年は薪炭も一層不足で寒いことでしょう。
  僕も勇み鼓してさらに寒さと戦うつもりでいます。」

これを記した約2時間後に絶命。
ただ、不思議なことに逮捕され死刑判決を受けた直後に見られた死への言及は一度やみ、処刑される数回前の手紙で復活した。死を恐れていない、清々しい気持ちでその場に臨もう、と。

実際の彼はどのような気持ちでその場にいたのだろう。

この本、好き嫌いが激しそうなので、あまり人に薦められる本ではありませんが、ユニークな本なのは確かです。ご興味があればぜひ。少々高いですが。
念のため、本の題名は「愛情はふる星の如く」です。

愛情はふる星のごとく

個人的なことではありません。念のため。
ゾルゲ事件の首謀者の一人として逮捕され、死刑判決を受け1944年11月に絞首刑に処された尾崎秀実が、妻の英子と娘楊子に宛てた獄中からの書簡集です。

以前に、手に入れようと思ったまま忘れてしまったこの本を思い出してしまい、どうしようもなく手に入れたくなってしまいました。

手に入れる前日の夜など、何度となく、この本について思いを馳せてみました。「愛情は、ふる星のごとく」なのか、「愛情はふる、星のごとく」なのか悩んでみて、でも後者だったら「愛情はふる。星のごとく。」になるからやっぱり前者なのかなと思ったり。幼稚な問いかけをして、気分を高めていました。

小説ではなく、書簡でしかも往復書簡ではなく尾崎秀美が妻と娘に宛てた一方向の手紙しか掲載されていないにもかかわらず、昭和の舞台へと引き摺りこまれます。色のない獄中とセピア色の母と娘の暮らす家へと。

現在ですら犯罪者の家族は冷たい目で周囲から見られるのに、戦時体制の狂気の中で政治犯の家族の居場所のなさは想像に難くありません。

尾崎の政治活動を何も知らなかった英子からの恨み節に、彼は反発するわけでもなく、ただ獄中から二人を支える言葉を投げかけ続けます。

 私は心から二人の許にかえり、
 また一しょに仲よく暮らす日のことを考えています。
 生きていてさえくれればきっとまた
 私が三人の生活を立て直しますから。
 
そして、ユーモアを交えつつ楊子の成長を見守ります。

 楊子は「巣」の字をいつも間違って
 「肖木(字がない。田を日と書く)」と書いてしまいます。
 すがぐらぐらして木から落ちるといけませんから注意なさい。

穏やかな口調にも関わらず、悲痛な心が読み取れるのです。彼は、本人は自分の将来を予測できていたでしょうから。

まだ、彼が死刑判決を受けた頃までしか読んでいません。刑に処されるまであと一年ほどあり、おそらく(全くの想像ですが)これから妻と娘への愛情がさらに溢れるばかりに降り注ぐのでしょう。これからの尾崎の日々を丁寧に読もうかなと思っています。

どうでもいい話を加えるなら、
「きっとこの本に興味を示すだろうな、読み終えたら貸したいな。」
と、ふった星のごとく、輝きを失って余熱だけを発する愛情を私は抱えながら読み進めています。