日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ

数年前、一緒にお茶を習っていた人と焼き物鑑賞教室に行った帰り道に寄った本屋で見つけた本。

 

本屋に寄った目的は全く別だったはずだけれど、偶然この本をみつけて「お茶」の楽しさと難しさを上手く表現していて、そういう言葉に共感してくれそうだったので一緒にいた女の子に手渡したしたら彼女は本を取ったまま読みふけってしまった。しかたなく、もう棚からもう一冊とりだして自分も読み進めること数時間。

 

「すごくいい本だね」

 

途中で疲れたのかしゃがんだ彼女が、その体勢のまま見上げて言った。本を大切そうに閉じて、目元を少し潤ませて。

 

「そうだね」

 

と言う代わりに、彼女の頭に軽く手をあてて撫でた。少し照れたように笑った彼女と自分の周りには、この本を通じて得た共通の世界があるように思えた。二人だけが茶室にいるかのような。

 

そんなすごくいい本なのに二人とも買わずに本屋を後にした。しかもどこか満足げに。

 

本屋を出るときは二人手をつないで、というのは嘘だけれど。

 

 

 

それからまた少し経って文庫版を買ったもの本棚の肥やしにしていたのだが、ようやく再び読み通してみた。

 

解説者が、「これはお茶の本ではなくエッセイとか哲学だと堅いけどそういう本なんだよ」と言っているけれど、確かにどのカテゴリーに属させようか迷ってしまう。お茶を知っていたらより面白いのは確かだけれど、知らなくてもその世界に浸れるだろうからお茶の本ではないし、エッセイというほど個人を押しつけるものでもなく、私という主人公がお茶を通して成長していく冒険小説のような読み心地があった。

 

それは、題名こそ「お茶」ではあるけれど、お茶のすばらしさを説くというより、お茶の素質がない向いてないと思い続けた著者が、「それでもいいんだよ」とお茶に許容され、たどたどしい歩んでいるからだった。お茶を習い続け、気づくと季節を味わう術を知っていたり、新しい価値観を得る場面に出くわすと、こちらまで著者同じスキルを身につけた気になってくる。

 

きっと、日本には多くの季節があるというのは、気候うんぬんというより刻々と変わる季節を感じて生活に汲み入れた茶人を含めた先人達がいたからで、その敏感さを失えば季節を失い暦だけのものになのだろう。彼らが季節を大切にする理由を著者は人生に求めている。

 

きっとむかしの人たちもこうやって心と季節を重ね合わせながら、生きのびようとしたにちがいない。

「節分」「立春」「雨水」と指折り数えて自分自身を励まし、何度も冬への揺り戻しに試されながら、辛抱強く、人生のある季節を乗り越えようとしたことだろう。

 

だから季節の行事を大事に祝うのだ、と。

 

 

明日は冬と春の分岐点の節分。順調に春に向かって行ければいいけれど。

 

日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ (新潮文庫)

著者/訳者:森下 典子

出版社:新潮社( 2008-10-28 )

文庫 ( 252 ページ )


今年のお茶のまとめ

司馬遼太郎の「峠」から少し長い引用になる。
ちなみに、ここでの藩主は幕末の越後長岡藩主牧野忠訓をいう。長岡藩の家老が、この物語の主役の河井継之助である。
さて、引用。

 (藩主と話をするのに、礼にうるさい広間と違って)茶室はこの点、便利であった。茶室の礼はきわめて簡素で、炉を囲んだ場合にはけめは亭主と客しかいない。互いに腹蔵なく物がしゃべれるのは、茶室しかない。
 (中略)
 藩侯父子は、亭主の座についた。この場では広間にない親身さが一座に満ちた。茶と言うものを考え出した室町人は、よほど礼式の窮屈さにあきあきしていたのであろう。

その箇所だけ文字が浮き上がってみえるほど、心に焼きつく言葉だった。
現在の会社に置き換えて言えば、広間とは会議室を指し、茶室は飲み屋をさすのだろうか。おそらく「堅苦しく考えず、お茶でも呑んで話そう。」という感覚なのだろう。この司馬遼太郎の文だけで語るなら、狭い空間で膝をくっつけあいながら、礼式を簡略するために茶室は作られた。茶道(元々は、茶の湯といった)とは、社会の無駄を削ぎ落とすためのものだった、となる。

ただ、これに違和感を感じなくもない。
自分を含めた現代人にとって、茶室とは寺社のように厳かで神聖なものとして接っしてしまう。茶室に入ると、腹をわって話し合うどころか口を開くのも躊躇してしまうほどピシッと張り詰めた空間が広がる。また、礼式の簡略どころか礼式を学ぶために茶道をやる人も多い。

もちろん、茶の湯が儀礼の意味を持ち始めたのは、各流派が茶の湯の所作を体系化させたことに起因する。ただ、この違和感を解消するもう一つの要素は身分制度なのではないかと思う。

茶室に入ると身分の違いはなくなり、存在するのは亭主と客ただそれだけである。昔も今も変わらない。ただ、主従の関係が明確だった昔は、従者が主人に言葉を発するのも数々の障壁があった。まず卑賤の者は、藩主や将軍に拝謁することも憚れたし、拝謁がかなう場合でも、間に簾があり直接顔は拝せなず、身分によって拝謁する場所が指定されたりと、多くの慣例に則っていた。

先に述べたとおり、この障壁や手間を手っ取り早くなくすためには、茶室という官位という身分を否定し、新しく亭主と客という身分になる場を必要とした。

だが、明確な身分制度がなくなった今日、主と従の関係を取り払う茶室は意味をなさない。自然、茶の湯は別の道を模索し、所作の美しさと心の美しさが結びつき両者を極めていくものだという、役目へと代わっていった。花嫁修業の一つになり、茶道が女性のする印象が強くなったのもそのせいだろう。

むろん勝手な考察でしかない。

いま、八畳の茶室なのだが、いざ茶室に座ると、この世界がどこまでも続いているような感覚になる。客の向こうの世界を感じることができる気がする。

むろん勝手な幻想でしかない。

来年の秋ぐらいにお茶会を開くかもしれません。こんな勝手なお点前でよければ、いらしてください。

日日是好日


今日は、月にぼんやりと雲がかかっていて、秋の月を思わさせられました。秋に向かう流れを感じました。

先月末に、お茶の道具を買いました。
手習いをする時に使う袱紗や菓子きりと共に、お抹茶を入れるための茶せんや茶杓などを買ったことで自宅でもお茶を点てれるようになりました。

もちろん、釜や柄杓などはないので、お湯を入れるのはポットだったりと、情緒が漂ってこないのですが、欲しいものを手に入れた嬉しさに、時々お茶を点てています。

先日、旧安田庭園で行われた納涼祭に行ってきました。目的はそこで開かれる野点で、一般の方が多く参加する物なので気軽な気持ちで行ったのですが、並んだ順番の関係で、正客(主賓)になってしまい焦りました。お茶を頂く作法はあいまいだし、流派は習っているものと違うし、何より少し前に読んだ「日日是好日」というお茶をテーマにしたエッセーに、「正客はお茶を点てる亭主より重要な役目なんです。」と脅されていたからです。

大勢の中で一番最初にお茶を出され、緊張しつつも滞りなく曖昧にお茶をいただきました。そのつもりですが、お茶をやられている方にどう映ったかは分かりません。
「けっこうなお手前です。」
「どうぞお仕舞いください。」
など、所謂お茶らしい挨拶を言っていいのかすらわからず軽く礼をしただけです。その礼もひどくぎこちなかったことでしょう。

ただ、正客になって良かったことが2つあって、ひとつは熱いお茶と冷たいお茶を両方いただけたこと。そしてもうひとつは、お茶を点てている所を間近で見られたことです。

お茶を点てて下さったのは、同じくらいの年齢の女性なのですが、そのお手前が絹のように艶やかで柔らかく、まるで空間を撫でているようなのです。彼女の白い手に目が釘付けでした。静かな空間に音楽を奏でているようでした。道具や、柄杓からこぼれる水の音で。それはもう、泣いてしまうほど繊細なお手前でした。

感動しきりで、お茶を点ててくれた人に、思わず告白しそうになってしまいました。
水差しやお棗も、夏用にガラスでできたとても涼やかなものでした。持って帰りたくなりました。

明後日は、国立博物館でのお茶会に行ってきます。最近、お茶を点てる空間が大好きです。心が丸くなって、自分の目の前にふわふわ浮かんでいるような感覚になれます。いつか家を持ったら、お茶室も欲しいなとか思ったり…。

お薄を差し上げます。



久しぶりに人前での発表でした。発表会なんて、何年振りでしょう。「点前をした」という言葉の使い方が正しいのかもよく分かりませんが、とにかくお茶を点てる儀式を行いました。突然決まったお茶会に恐れをなした覚えの悪いわたくしへ練習のたびに
「これで、次回はもう大丈夫ね。」
などと、口調はあくまで柔らかいのに、有無を言わせぬ威圧感でプレッシャーをかける先生には参りました。
最終的には、全てを覚えておらず、先生に小声で指導してもらいながら、なんとかやり遂げたお茶会でした。終わってから、パチパチという拍手が起こっただけで、どれだけ拙いお点前だったか想像に難くないでしょう。
緊張したのかといえば、それほどでもなく、目の前にある茶器のどれに手をつけようか必死でして、周りに人がいるのも忘れるくらいに、次の行動を考えるのに夢中でした。それでも、練習のときに気をつけていた、水差しを持つ位置ですとか、茶碗の持ち方などをすっかり忘れてしまって、持つことに意識が集中していたことを考えれば、やはり上がっていたのかもしれません。

児童館のすぐ近くでやったこともあり、子供達が多くきていたのですが、お茶を差し上げに行った時のこと、わたくしも作法が分からず、お茶を差し上げた子供も作法が分からず、お互い見つめ合っているという不可思議な現象もありました。勉強あるのみです。

「お茶は雨上がりみたいだよね。」
という名言を残した方がいます。一緒に習っている人です。静けさの中に柄杓からこぼれる水の音とか、と。そう言われてみると、お茶を点てる行動一つ一つが春雨の降った後の庭の要素のような気がしてきます。情緒のある風景を描くようにお茶が点てられるよう、精進していく所存でございます。