随感

単純作業の繰り返しが苦手でどうにもならない。自分の意志をどこに置いて作業すればいいのかわからなから、すぐに気が散るしどうでもよくなる。そうはいってもしかたないので、作業に楽しみを与えてみる。数字の入力であったら好きな数字、例えば自分の誕生日だとかを見つけるだとか。アーティストの写真の加工であれば、女性アーティストの顔を楽しみに。けれど、それが美人じゃないときの落ち込みようったら。まして、女性のような名前をしておいて男性の写真だった時なんて作業を止めようと思う。単純作業が得意な人たちも同じなのだろうか?

ちょっとした刺激の繰り返しといえば、ノルウェーの森。
彼の作品は、友人に勧められた「海辺のカフカ」、好きな人が読んでいた「ねじまき鳥クロニクル」続いて3作目。ある意味、彼の作品を自らの意志で手に取るのは初めてだった。これまで読んだ2作品とも、正直、面白いと思えるほど読み解けなかったし、初めて本屋で立ち読みした時から持っている苦手意識もあって意識的に避けていた。それを、なぜ手に取ったのかと聞かれてもよくわからない。映画化されるからといえばそうかもしれないし、いまだから手に取ったと言えばそうかもしれない。立ち寄った本屋で、別の小説を買うのと一緒に、なんとなく目にとまって上巻だけ手に取った。結局、買った中で一番最初に読んだ本にになったのだけれど。

決して好きとはいえない作家の本をどう読み進めるか。それこそ作業ともいえそな行為の潤滑油としてネットラジオでクラシックを流すことにした。スピーカーからはドイツかもっと右の方にある国の言葉が時々流れてきた。おそらく作曲者と曲名を言っていたのだろうけどよくわからなかった。

そんなこんなで読んでみたけれど、思ったより読みやすかった。何よりちょっとした刺激の繰り返しがあることで、それを楽しみにすることが出来た。作品自体の良さはよくわからないので、残念ながら、単純作業の楽しみを見つけるための小説という印象でしかない。

ただ、かつて彼の小説の良さを聞いた時に言われた
「読んでいて、『この感覚分かる』というのが所々に出てきて、その共有感が面白い。」
というのは、少し分かる気がした。その箇所をページを折り曲げるくらいに。

ないといえば、バーガーキング。スワンナプーム空港の冷房とバーガーキングに凍死させられそうになった恨みをコロッと忘れて、日本のバーガーキングに初めて行ってみた。

メニューを見て最初に目についたのがハンバーガーのトッピング。ハンバーグだけじゃなく、レタスやトマトまで追加できるようになっている。ファストフードのハンバーガーを少しファストじゃなくすには、シャキシャキのレタスを数枚入れるのが一番早い。ハンバーガーの名前を言う前に、レタスのトッピングから注文した。

けれど、8分も待たされてきたハンバーガーの中に入ったレタスは500円玉くらいの細切れがいくらか増えていただった。実は、下手くそな千切りだったのかもしれない。レタスはシャキシャキではなかったし、しかも、ハンバーガーからは飛び出てしまって、上手く一つの食べ物として食べることすら出来ない。包み紙に残った水っぽい肉汁とマヨネーズに浸ったレタスを食べるか否か迷ったけれど、手が汚れるのでやめた。

結局のところ、ファストフードでしかなかった。これだったら、バーガーキングの隣にあった八百屋でレタスを買って、ちょっとバーガーキングの厨房を借りて洗わせてもらって、自分でハンバーガーに挟んだほうがよっぽどいい。余ったレタスはバーガーキングに取り置き。レタスに名前を書いといて。でも、そんな頻繁に行かないから、隣の八百屋がハンバーガー用のレタスをバラ売りすればいいのに。気の利かない八百屋だ。

隣といえば、いい耳かきが欲しくて近所のドラッグストアに行って色々と見ていたけれど、耳かきのすぐ隣にコンドームが売っていて、どうも他人の目が気になってしまって買わずに帰ってきてしまった。エロ本を買おうとする中学生の気分。

特につながりはないけれど、トイカメラをもらった。写真で見るより質感といい操作性といいはるかにトイだった。何枚か撮影したけれど、焦点の合わせ方が難しいのと、マクロに対応していないのが残念。トイカメラはマクロが楽しめてこそな気がしなくもないけれど、と思ってよく見たら切り替えスイッチが大きくついてた。構図さえ考えれば、あとはどうにもならないからトイカメラは楽かも。mixiのフォトアルバム使いづらい・・・。気が利いてないというか。使う予定もあんまりないからいいけれど。

春の光

春に向かっているからなのか、暖かくなり始めて急激に自分を取り巻く運命のつぼみも弾けだした気がする。
それが、彼女のいうような予兆、村上春樹の「ねじまき鳥クルニコル」で言えば、「主人公の飼っている猫がいなくなる。」と同じきっかけがあって、(彼女に言わせれば、予兆の日は、気象庁が桜の開花日の予想を修正した3月15日らしい。)動き出したものなのか、あくまでも自然な流れに添ったものなのか、いまいち僕には分からないけれど、確かに突拍子もない彼女の言葉を信じてしまいそうになるほど、今までと違う道が目の前に急激に現れだしたことに気づく。そして、明らかに関連性のないことが、さも当然のように連なって起きていることも何かの歯車が動き出していることをありありと感じさせる。もう一度彼女の言葉を借りれば「それに伴って起きることが、大きいことなのか、小さいことなのかはわからないけれど。」
僕は、時計の短針を一周させて、朝の10時から夜の10時にさせたつもりだけなのに、窓の外には街灯が灯り、人も空の色も観賞用のポプラも、夜用に姿を変えてしまって、スイッチを入れたはずの僕が戸惑ってしまっている。慌てて、時計の短針をもう一周させてみたけれど、もう手遅れだった。けれど、夜の10時を生活していこうと割り切った感情にもいまいちなれないが、しかたなく、残像だけの朝10時にサヨナラを言い始める。

何度もしてきたことなのに「サヨナラ」は難しい。
サヨナラを言うためだけに焦ったり、言えなくて歪曲した形で表現してしまったり。サヨナラを言ったとしても、ぶっきらぼうな言い方をしてしまって傷つけたり、思っていることを伝えきれなかったり。大切だと思う人にほど、大切な伝え方が出来ない自分がもどかしい。
「予想してた?」
「全然、泣きそう。」といいながら、少し遠くをみつめる彼女に
「泣いていいよ、一緒に泣くから。」
とは言えずに、逆にサヨナラの仕方を教わってしまう。
明日を呼ぶために、スイッチを押したのに、明日が来なければいいと思っている。だから下手なんだ。サヨナラが。