恋愛週間5


「お待ち合わせですか。」




鼻の下に髭をたくわえたマスターが、サービスです、と言って二杯目のアイスコーヒーを持って来きてくれた。




初めてこの店に来たわけではないが、数度来ただけで、顔なじみでもないのにと不思議に思ったが、軽く頭を下げ、お礼を言って頂戴した。
マスターは、そのままカウンターには戻らず、話しかけてきた。




アイスコーヒーをくれたのは、は若い僕へ話かける配慮なのだろう。
話すきっかけを作るための。マスターの年齢に似合わない子供地味た発想が面白かった。




僕は少し考える。




「待ち合わせというより、待っているだけかもしれません。」




底の方がくびれたグラスを持ち上げ、アイスコーヒーを口に含む。氷がグラスを鳴らす。昔、実家にあった南部鉄瓶でできた風鈴の音に似た、足から徐々に聞こえてくるような深い音がする。




「約束はなさってないと。」





「二年前に当時の彼女と約束したんです。このお店にまた来ようと。
偶然このお店にきたけれど、自分たちは、まだこの店には馴染まない。
それだけの年輪が刻み込まれてない。一年後にまた来て、どれだけ成長したか確かめよう。そして、もし足りなければ、またもう一年頑張ろう。若さゆえ将来が直視できないためにした約束です。約束と言うより願望と言うほうが正確ですかね。かといって、二年前から大人になったとは言えないですけれど。」




「では、一年前もいらっしゃったのですか。」





「一年前は、ヨーロッパの方に行ってましたから。それに、当時、既にその時の彼女とは別れてしまっていました。向こうから、お店に電話しようかとも思ったのですけれど。」




そこで僕の口から出る言葉が止まってしまった。




店の中央の柱にある掛け時計が僕の言葉の代わりに沈黙を埋めた。この時ばかりはと重低音を響かせたあと、また黙りこくる。時報の余韻を味わって、自分に言い聞かせるように僕は話しだす。




「もう少し、もう一度時計がなるまで待ってみようかと思います。」




「これまでで一番長い三十分になりそうですね。」




「そうなるかもしれないし、そうではないかもしれない。」




「短い三十分かもしれないと?」




「ええ、もう着てから二時間はたっていますし。あっという間に。」




「その間、あなたはずっと左手に本を、右手に携帯電話を持っていますね。」




「どちらも使っていないのに―ですね。」




自分の無意味な行為を、ずっと見られていたのを知った恥ずかしで苦笑しながら僕は言う。




「話を戻しますけれど、次に時計が鳴るまでとおっしゃった。」




「どこかしらで区切りをつけたいので。」




「仮に、時計が鳴らなかったらどうします。例えば、この古時計が故障してしまったとか。本当に古いですからね。私の年と同じくらいに。」





マスター自身で時計をわざと壊してしかねない、そんな、無邪気な笑顔をして言う。




今まで何も感じなったマスターの年齢が急に気になりだす。マスターと先ほどまでいた別の客との会話から、この店が三十年も前からあることを知った。二十代半ばから、この店を始めたとすれば、今の彼は五十代の中ごろ。見た目も、そうと言われれば納得できる。
しかし、二十代半ばで神楽坂に店が開けただろうか。それとも、当時は別のマスターがいて、その下で働いていたのだろうか。次々沸いてくる疑問を押し消して、僕はマスターの問いに応える。




「難しい質問ですね。ここで待つからには、ここにあるもので区切りをつけたい。自分の持っている物ではなく。そうすると、店じまいするまでになるでしょうか。」





「それは、自分で決めることの出来ない結論を他者にゆだねている、と、とってしまっていいのでしょうか。」





「僕は優柔不断ですからね。」




優柔不断。自分で言った言葉に小さな溜め息をもらす。




一年以上前のある日、ピアスを買ってあげる約束をして一緒に見に行った。何度も付け替えては、鏡を見て悩んだあげく、僕にどちらが似合うか聞いてきた。




「どっちも似合うよ。」




「そう、じゃ両方買って。」




嫌悪感をむき出しにして言われた僕は少しむきになって両方のピアスを買いたいと店員に告げた。ピアスの入った紙袋を手渡すと、彼女はありがとう、とそっけなく言い、ふてくされた顔をして僕を置いて歩き出した。





何を不機嫌にしているのか全く分からなかったが、急に立ち止まり、振り返って一気にしゃべりだす。
「あなたの、『どっちもいい。』は。『どっちでもいい。』だし、『どうでもいい。』なの。興味がないって言われているみたいで、嫌になる。優柔不断さをごまかすために、選択権を私に押し付ける。呆れるくらいに、いつもそう。」





言葉にはしなかったが、二つとも買ってあげて、何ゆえ文句を言われる筋合いがあるのか。その理不尽さから、そのまま歩き出す彼女の後ろ姿を見送った。




それ以来連絡をとってない。




思い出しながら、そんな子供っぽい理由で別れた過去の自分たちが馬鹿らしくなる。なのに、昔の約束を思い出して、今ここに来てしまった。そんな自分が情けなくなる。なかなか立ち去ろうとしない自分も。




長々と、アルバムの写真を見ながら自分で自分の過去を振り返るように、マスターに彼女と別れたいきさつを話した。その間、マスターは必要以上に喋らず、言ったのは、ただ僕の言葉を引き出す最低限の言葉だけだった。




店の時計に目をやると、さっき時計が鳴ってから五分もたっていなかった。慌てて自分の携帯電話の時計も見るが、デジタルで表示されている時間は、店の時計が指すものと変わらない。




見透かしたように、マスターは言う。




「ここの店では時間の経つのが非常に遅く感じられるんですよ。




だから、ある文筆家さんが締め切り間近になると、よくいらっしゃる。店の照明を明るくはしませんよ、と言っていたんですが、別にいいからと言って、暗い中で筆を滑らしていく。その方が座るのが、あの窓際の席なんですよ。照明を明るくしないと言ったんですけれど、しかたなく、こちらが折れて、照明を調節してその席のテーブルだけ少し明るくなるようにしているんです。」




確かに、他のテーブルは周囲と同色で薄暗いままのに、そのテーブルの一メートル四方に満たない部分だけ照明の光が差し、スポットライトが照らしているように見える。白く浮かび上がったテーブルを見ながら原稿に筆を入れる姿を想像する。なぜか、書いているのは彼女だった。




「そろそろ、来てもいい頃合いですね。」




おもむろにマスターは言う。




「一年前も、このくらいの時間にいらっしゃった。」




少しの間を置いて、マスターの言葉の意味を理解したのと同時に、木の擦れ合う音がし、ドアに付けられた鈴が鳴る。




「いらっしゃいませ。」




店の入り口の方へ、マスターの声が静かに広がっていく。




後ろからハイヒールの音がする。僕は振り向けない。

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