もう一人の運命の人

どちらかというと、この人の方が運命を感じた。自分に直接関わる運命ではないけれど。

 

「世界の果て」とも言われる、最南端の町ウシュアイアの滞在を終えてブエノスアイレスへ飛行機で向かい、預けた荷物を待っているときそこにいた日本人の看護士と立ち話をしていると、知り合いらしい「お婆さん」といってもいいくらいの人が来た。年齢は78歳。にもかかわらず、大きなバックパックを背負い、小さめのリュックを前にかけたバックパッカーらしかった。南米を3ヶ月ぐらい旅行する予定で、ウシュアイアには南極へ行くために滞在し、分厚い書類を書き南極へのクルーズ船に乗れたと子供のように話してくれた。

 

三人でブエノスアイレスの市街地へ向かったが、目的の宿が予約していた看護士の分しか空いておらず、そのおばあちゃんと二人でブエノスアイレスの街に放り出されてしまった。まぁ自分たちが悪いんだけど。お互い、翌日にイグアスへ向かうのを知ってそれじゃあと、イグアスまで同行することにした。

 

バスターミナル近くのホテルに泊まった後、昼過ぎに出るバスチケットを確保しそれまで買い物へ行くことに。

「どうせ時間あるし、あなたも付いてくるでしょ」と。

中心部にあるショッピングモールに入っても「プレゼントをあげなきゃいけない男がいっぱいいて」と口は快調。一番最初に入ったお店で気に入ったベルトを見つけたものの「見つけてすぐ買う悪い癖があるから、一周してきてからここで買う。」と言い次のお店に向かったが、そこでも同じような物が売っていて購入してしまい苦笑した。女はいつ生まれても女であるらしい。

 

ただ、強い。トイレの手を洗う用の水が飲めるかを聞いて、日本からもってきたペットボトルへ蛇口から水を入れそれを飲んでいた。もちろんスペイン語が話せるわけではないので身振り手振り。「身振り手振りと『ニッ』と笑えば大丈夫。」が彼女の口癖。そして、歩くのも速い。小さいリュックを持ってあげているとはいえ、ぼんやり歩いていると置いていかれそうになった。

 

 

さて、イグアスへ向かうバス。

 

ほぼ丸一日の移動の中でいろいろと話した。話した、というよりほとんど彼女が一方的に話をしていた。1年の半分近くをバックパッカーし世界を回っていること。もうすうぐ迎える誕生日をどこで過ごそうか思案中なこと。イグアスへ行った後はパラグアイへ抜けて小さなした日本人街へ向かうこと。

 

そして、浪江町で原発の作業者向けの下宿をしていたこと。今は娘さんが下宿をついでいること。今の時期は特に作業員が多く忙しいこと。下宿が儲かること。浪江町は原発で潤い100歳になると100万円が支給されるため、それを資金に世界一周したいこと。とりとめのない世間話としてその時は聞いていた。この時点では、イグアスに着いたらそれぞれ別行動になり、旅の中で出会ったパワフルでイビキが少しうるさいおばあちゃんとして記憶されるだけのはずだった。

 

イグアスへつくとホテルを予約していた自分とは別れ、彼女はウシュアイアで知り合ったらしいアジア系のアメリカ人についていった。まだチェックインまで時間があったのでホテルに荷物を置いて、ブラジルのビザを発給するためにブラジル領事館へいくとインターネットで書類を書けるからプリントして持ってこいといわれ、プリントアウトできるネットカフェを探し回ることに。そこで、メールをチェックすると友人から「地震あったけど大丈夫だった」とだけメールが。地震があったんだとあまり気にもとめず、ビザの手続きをしたがうまくいかずに断念しホテルへ戻った。すると、ホテルのロビーのテレビからJAPONの文字と津波の映像が流れていて絶句した。スペイン語で内容はわからないが時折NHKの映像が使われ、東北を中心にした地震と原発の事故を知り、さきほど別れた彼女を思った。彼女の親類の安否はもちろん、そもそも地震の情報が彼女の元にちゃんといくのか。

 

宿泊する宿を聞いていなかったけれど、おそらく、という場所があったので行ってみたもののおらず、イグアスの滝に当日には向かうと言っていたこともあり、自分自身することもないので向かうことに。日本の情報はネットで見られたけれど断片的な情報しか入ってこないし。

 

イグアスの滝から帰り、再度彼女が泊まっていると思われる宿に向かってみると、偶然ロビーにいて彼女の方から飛んできた。

「きっと心配して探しに来てくれると思っていた。」と。

とはいえ、特に出来ることはなかったが、ブエノスアイレスを発つ日、彼女の娘さんにあてて代わりにメールを送っていたこともあった。その方が日本に帰った後で知り合った人のメールアドレスもわかっていいという理由で。その返信があったかを気にしていたが、残念ながら返信はなく、他の手段での連絡も全くとれないとのことだった。スカイプを使って何カ所か電話をしてみるもつながらなかったが、千葉の弟さんにはつながったことで少し落ち着いたようだった。

 

その夜は宿にいた日本人がいつの間にか彼女の周りに集まって彼女の独演会のようになっていた。原発の近くで暮らし作業員と親しかったせいなのか彼女の性格がそうするものなのか、政府は事実を全て伝えないだろうしもう帰ることはできないだろうと非常にリアリスティックな一面をのぞかせ、「もうお祝い金は支給されないだろうから100歳まで生きるのはやめる」と昨日とは真逆なことを言いながらも、言葉ひとつひとつの根底には彼女の崩れない強さがあった。人生で何度も辛い目にあってきたけど、なんとかやってこれた。今回もきっと大丈夫だと。

 

翌朝、再度宿へ行きNHKがネットで見られるようになっていたのでそれを伝えると食い入るように見ていた。ブエノスアイレスへは宿で知り合った人が一緒に行ってくれるとのこともあり、そこでお別れをした。

 

日本に帰ると、家族は無事で、千葉の親類の家に避難していると手紙が届いていた。ブエノスアイレスのノミの市でみつけたというマテ茶を飲む茶器に名前を彫ったものが添えられて。

 

そして、落ち着いたら、また旅に出ますともう前を向いていた。

 

そんな去年の3月11日。

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