数年前、一緒にお茶を習っていた人と焼き物鑑賞教室に行った帰り道に寄った本屋で見つけた本。
本屋に寄った目的は全く別だったはずだけれど、偶然この本をみつけて「お茶」の楽しさと難しさを上手く表現していて、そういう言葉に共感してくれそうだったので一緒にいた女の子に手渡したしたら彼女は本を取ったまま読みふけってしまった。しかたなく、もう棚からもう一冊とりだして自分も読み進めること数時間。
「すごくいい本だね」
途中で疲れたのかしゃがんだ彼女が、その体勢のまま見上げて言った。本を大切そうに閉じて、目元を少し潤ませて。
「そうだね」
と言う代わりに、彼女の頭に軽く手をあてて撫でた。少し照れたように笑った彼女と自分の周りには、この本を通じて得た共通の世界があるように思えた。二人だけが茶室にいるかのような。
そんなすごくいい本なのに二人とも買わずに本屋を後にした。しかもどこか満足げに。
本屋を出るときは二人手をつないで、というのは嘘だけれど。
それからまた少し経って文庫版を買ったもの本棚の肥やしにしていたのだが、ようやく再び読み通してみた。
解説者が、「これはお茶の本ではなくエッセイとか哲学だと堅いけどそういう本なんだよ」と言っているけれど、確かにどのカテゴリーに属させようか迷ってしまう。お茶を知っていたらより面白いのは確かだけれど、知らなくてもその世界に浸れるだろうからお茶の本ではないし、エッセイというほど個人を押しつけるものでもなく、私という主人公がお茶を通して成長していく冒険小説のような読み心地があった。
それは、題名こそ「お茶」ではあるけれど、お茶のすばらしさを説くというより、お茶の素質がない向いてないと思い続けた著者が、「それでもいいんだよ」とお茶に許容され、たどたどしい歩んでいるからだった。お茶を習い続け、気づくと季節を味わう術を知っていたり、新しい価値観を得る場面に出くわすと、こちらまで著者同じスキルを身につけた気になってくる。
きっと、日本には多くの季節があるというのは、気候うんぬんというより刻々と変わる季節を感じて生活に汲み入れた茶人を含めた先人達がいたからで、その敏感さを失えば季節を失い暦だけのものになのだろう。彼らが季節を大切にする理由を著者は人生に求めている。
きっとむかしの人たちもこうやって心と季節を重ね合わせながら、生きのびようとしたにちがいない。
「節分」「立春」「雨水」と指折り数えて自分自身を励まし、何度も冬への揺り戻しに試されながら、辛抱強く、人生のある季節を乗り越えようとしたことだろう。
だから季節の行事を大事に祝うのだ、と。
明日は冬と春の分岐点の節分。順調に春に向かって行ければいいけれど。
