第一巻である春の雪が終盤に差し掛かったころ、次巻を求めて本屋に行った。何気なく隣の第三巻を手に取り裏表紙に書かれていたあらすじを読んでしまったことで、いま読んでいる結末が見えてしまい落胆した。もっとも、輪廻転生という作品のテーマを考えれば、わずか100ページも満たない先の帰結など容易に想像出来ることでもある。さらに付け加えれば、第三巻である「暁の寺」を物語の舞台でもあるタイへの旅行の事前準備の一環としてガイドブックと共に購入していたわけで、7年も前のこととはいえ裏表紙に記されるあらすじは変わっていない。結果として冒頭しか読まなかった暁の寺だが、何もかも都合良く忘れられると、そのあらすじを再度読みながら思った。
春の雪は、とにかくマッチョであることを強いる小説である。登場人物も、著者本人もそうであろうとし、読者にもマッチョであることを強いてくる。水のように流れる文体を好みとしている者にとって、険峻な岩山のような彼の小説は骨が折れる。しかたなしに、形式上マッチョであると自身に言い聞かせて読み進めた。
並び立つ玲瓏な表現の美しさは触れるまでもないのだが、最も驚嘆したのは一つの文が句点で終わりを告げたあとに導かれる次の文の展開に独特の感性をみたところだった。それも、あからさまな特異さによって、その前後の文は繋がれているわけではなく、素足で砂地を歩いていると構成する砂の性質の変化が足裏から伝わってくるような、非常に微細でいて、感覚には明瞭に訴えるものなのである。これまで三島由紀夫の著作を含めた他の小説では目にすることのなかったものだった。このようなことが許されるのかと、世界が開けた気がした。
さて、主人公の清顕。小説の中から抜き出せば、
清顕のその美貌、その優雅、その性格の優柔不断、その素朴さの欠如、その努力の放棄、その夢みがちな心性、その姿のよさ、そのしなやかな若さ、その傷つきやすい皮膚、その夢をみるような長い睫…
となるのだが、美貌や優雅さ、今となっては若さを除けば、清顕は自分そのもののようだった。愛にすら幼く、愛する者を冷酷に扱う点においても。清顕への不快は自身への不快となり、清顕への鬱憤は自身への鬱憤となる。そう思い込んでしまうと、清顕の親友である本田の言葉はむしろ心地いい。
「貴様は感情の世界だけに生きている。」
「貴様には意志というものが、まるっきり欠けているんだ。」
親友の言葉にも清顕は目覚めることはない。こういった言葉をかける親友がいることに陶酔し自尊心を満たしているのだから。清顕と同様に「何か決定的なもの」を欲しがりながら、幼さに身を任せているものにとっては、正に夢日記のような小説だった。
