春の光

春に向かっているからなのか、暖かくなり始めて急激に自分を取り巻く運命のつぼみも弾けだした気がする。
それが、彼女のいうような予兆、村上春樹の「ねじまき鳥クルニコル」で言えば、「主人公の飼っている猫がいなくなる。」と同じきっかけがあって、(彼女に言わせれば、予兆の日は、気象庁が桜の開花日の予想を修正した3月15日らしい。)動き出したものなのか、あくまでも自然な流れに添ったものなのか、いまいち僕には分からないけれど、確かに突拍子もない彼女の言葉を信じてしまいそうになるほど、今までと違う道が目の前に急激に現れだしたことに気づく。そして、明らかに関連性のないことが、さも当然のように連なって起きていることも何かの歯車が動き出していることをありありと感じさせる。もう一度彼女の言葉を借りれば「それに伴って起きることが、大きいことなのか、小さいことなのかはわからないけれど。」
僕は、時計の短針を一周させて、朝の10時から夜の10時にさせたつもりだけなのに、窓の外には街灯が灯り、人も空の色も観賞用のポプラも、夜用に姿を変えてしまって、スイッチを入れたはずの僕が戸惑ってしまっている。慌てて、時計の短針をもう一周させてみたけれど、もう手遅れだった。けれど、夜の10時を生活していこうと割り切った感情にもいまいちなれないが、しかたなく、残像だけの朝10時にサヨナラを言い始める。

何度もしてきたことなのに「サヨナラ」は難しい。
サヨナラを言うためだけに焦ったり、言えなくて歪曲した形で表現してしまったり。サヨナラを言ったとしても、ぶっきらぼうな言い方をしてしまって傷つけたり、思っていることを伝えきれなかったり。大切だと思う人にほど、大切な伝え方が出来ない自分がもどかしい。
「予想してた?」
「全然、泣きそう。」といいながら、少し遠くをみつめる彼女に
「泣いていいよ、一緒に泣くから。」
とは言えずに、逆にサヨナラの仕方を教わってしまう。
明日を呼ぶために、スイッチを押したのに、明日が来なければいいと思っている。だから下手なんだ。サヨナラが。